那覇女の意地で耐えた結婚生活①
東北地方の老舗に嫁入りし
文化の違いに翻弄される
私は1950年1月7日、
沖縄県那覇市首里に生まれました。
家庭環境はよかったとは言えません。
母は本妻でしたが、
結婚したときから父に愛人がいました。
父には無責任な優しさがありました。
なんにでもこだわらない人なので
誰でも愛してしまうのです。
お金はなくても、常に愛人がいました。
そのことで母は、よく泣いていました。
もともと心臓が悪かった母は、
私が高校1年のとき、
41歳で亡くなりました。
こんなみじめな人生であって
いいんだろうか……。
私は若い頃、母の人生に対して
いつもこう感じていたのです。
のちに琉球大学へ進学し、
その在学中、21歳で学生結婚しました。
卒業後は約1年間、石垣島で
中学校教員として勤めました。
結婚相手が長男だったので、
25歳のとき、彼の実家のある
東北地方へ行ったのです。
当時、東北地方と沖縄の風土には
大変な違いがありました。
次のような沖縄言葉があります。
イキガチュイ
チカナユーサンティカラ
イナグヤミ
女性が「イナグ」で、
男性は「イキガ」と言います。
男一人を養えなくて何が女か!
そんな意味があるのです。
こんな感覚は、今の沖縄には
すでに残っていませんが、
当時の「那覇女」の生命力を
物語る言葉です。
女性は子どもを育て、働き、
経済的に自立するのが当たり前。
そんな風土がありました。
ところが昭和50年代の東北では、
ほとんどが専業主婦でした。
女は家にいるもの、
仕事を持つなど、とんでもない
という価値観が根強くありました。
当時の夫の家業は、老舗の材木屋。
両親と同居したその日から、
自分がかなり弱い立場だと
思い知らされました。
淋しがり屋の義母は、いつも
誰かをお茶や食事に招いていました。
その接待は、嫁である
私の仕事でした。
朝昼晩と、3世代6人分の食事を作り、
片付け、掃除、洗濯がすべて
嫁である私の役目でした。
昼食の片付けが終わり、
夕食の買い出しにスーパーへ行く。
その時間だけが子どもと一緒に
いられる憩いの時間でした。
女性が解放されない意味では、
50年遅れていると思いました。
でも、しかたありません。
嫁の立場で頑張ろうと決めたのです。
「那覇女」の意地もあったでしょう。
ここまで読んでいただき
ありがとうございました!
続きは、次のブログをお楽しみに (^^)/
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