離婚、そして新たな学びの日々①
東北から沖縄へ戻ったが
不登校の息子に苦悩する
雪深い北国での8年に渡る
結婚生活を終えた私は、
2人の息子を連れて帰郷しました。
そして真っ先に向かったのが
那覇の平和通りでした。
恰幅がよく肌つやのいい女性が、
ウチナーカンプーという
沖縄独特の髪を結い、
パリッと糊のきいた
ウチナー着物(ジン)の袖を
まくって働く姿を見たのです。
その空気を深く吸い込みながら
なんなら風呂敷(ウチュクイー)
一枚で生活できる!
風呂敷一枚の野菜の仲買いから
やっていけるんだ!
……と勇気が湧いてきました。
ところで、塾経営で痛感したことは、
学習能力を伸ばすという目的で
子どもに短時間関わるだけでは
心と心の関わりができない点でした。
そのような意味で、私は
塾という仕事に物足りなさを
感じるようになっていたのです。
その頃、息子の教育についても
頭を悩ませていました。
学校に馴染めるタイプの子ではなく、
暴れるわけではないけれど、
彼はいわゆる“はみだしっ子”でした。
不登校になった息子に対して
どう接したらいいか
判断できずにいたのです。
このまま不登校が続けば
どんどん落ちこぼれてしまうため
あの手この手を考えて
登校させる策を講じました。
しかし、何をどうやっても
うまくいきません。
愛情をもって育てているのに、
なぜ思うようにならないのか。
焦りばかりを感じてしまいます。
いま振り返れば、息子を信じて
好きなようにさせたほうが
うまくいったのかもしれません。
他人の子どもの教育には
自信があった私も、
わが子のとなると自分を否定し、
他人にまかせたほうがよい
と考えてしまっていたのです。
子どもは、親の愛情さえあれば、
安心して育つことに気づいたのは
それからずっと後のことでした。
こうして再び人生の泥沼にはまり、
前へ進めなくなっていきました。
精一杯やっているのに報われない。
せっかく沖縄に戻ったのに、
こんな生活って、一体なんなの!?
結婚生活で感じたのと同じ閉塞感に
結局、東北で感じたのと同じ、
自分ではどうしようもない状況が
目の前に横たわっていました。
これはおかしい、もしかしたら
私自身が目に見えない運命に
操られているのではないか……。
そう考えるようになったのです。
ここまで読んでいただき
ありがとうございました!
続きは、次のブログをお楽しみに (^^)/
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